第三回 「伝説の知将・田村誠之輔監督」

昭和の「松下村塾」
 国立キングスの歴史を語るとき、忘れてはならない人物の一人に田村誠之輔という人がいる。田村氏は、キングス草創期、知将として国立球界に旋風を巻き起こし、短い期間ではあったがキングスの前身・国立若葉の「黄金時代」を築いたのち、静かに姿を消した幻の人物である。
 当時(昭和37年頃)、田村誠之輔氏は、国立の旭通りで小さな建具屋を営んでいたが、商売のことはすべて奥さんに任せ、自分は朝から晩まで「野球戦術」のことばかりを考えているという異常な生活を送っていた。夜ともなると、彼の家の居間は草野球愛好家達の巣窟と化し、毎晩のごとく時を忘れて野球談議に大輪の花を咲かせていた。そこでの議論は、現在から見ると決してレベルの高いものではなかった。しかし、ほとんど野球の基礎理論を知らなかった若き日の高乗正選手や前回登場したダイヤモンドの廣瀬監督などには新鮮なものとして映った。
 野球では、なぜ7回をラッキーセブンというのか?
 当時の野球は、現代とは異なり、投手は先発完投が常識であって、中継ぎ・ストッパーなどの分業化などの発想はなかった。西鉄ライオンズの鉄腕・稲尾投手が日本シリーズで5連投、南海ホークスの杉浦投手が6連投することなどは決して珍しいことではなかった。先発投手が完投ペースで投げる場合、ちょうど7回あたりに投球数が100球に近づく。そうすると、どうしても球威のないボールが多くなる。そこで、打者のヒットが出やすくなるから、得点のチャンスが増えて試合が動く。これがラッキーセブンという言葉の真の意味なのだと・・・、このような田村氏の熱い「野球学講義」が連日続くのである。若い野球青年の魂は激しく揺さぶられた。いわば、田村氏の居間はまさに昭和の「松下村塾」そのものであった。


群雄割拠の国立球界
 このような状況の下、田村氏が国立若葉(キングスの前身)監督になるのは、もはや時間の問題と思われた。案の定、田村氏の卓越した野球理論に魅了された選手達が近隣から集まってきた。現在の高乗和監督、その友人で日大鶴ヶ丘の野球部出身の中泉選手とそのまた友人である鈴木捕手、國學院久我山高校野球部の名投手で当時プロのスカウトの目にも止まっていた庄子選手、日大明成高校でその名を轟かせた強肩豪打の細谷選手、杉並区の洗濯屋の息子である大谷投手、山梨県の黒駒の私設郵便局長のドラ息子の堀内選手、元4回戦ボクサーの青柳選手、ソフトボール出身の金谷選手、前回登場の菊地選手、高千穂商科大学の四番打者の藤田選手などなど、実力も職業もバラバラの多彩な顔ぶれが揃った。それは、まさに波乱に富んだ「田村野球塾」のスタートであった。
 まず、田村監督が掲げた目標は、言うまでもなく「国立球界の制覇」であった。
 当時の国立球界には、強豪チームがキラ星のごとく割拠していた。国立ホープ、グリーンクラブ、国立クラブ、ダイヤモンド、青柳クラブ、国立市役所A、野中工務店など、今日とは比較できないほどの状況だった。まさしく戦国時代そのものである。これらの強豪を倒して、球界の王座に立つには何らかの戦略・戦術がなければならない。
 そこで、田村監督は二つの戦略を考え出した。その第一は、知将田村監督が最も得意とする「秘策」を用いること。その第二は、選手の大幅な補強であった。


田村流秘策
 
これまで仕事もしないで、ひたすら考えてきた「田村流の秘策」は昭和42年の大会で花を開いた。
 まずは、「カメラ戦術」である。田村監督は試合前に古道具屋から大きな望遠レンズのついた一眼レフのカメラを購入。それを相手打者の真正面、すなわち相手が最もよく見える位置に設置する。打者がバッターボックスに入ると、ひときわ目立つようにその一眼レフを打者に向けて、カシャ、カシャとシャッターを押すのである。相手打者としては、どうしてもそれが気になる。自分が明らかに被写体になっているのだ。これで、カメラを意識しない方がおかしい。ほとんどのバッターがスタンスのとり方、構え、それにスウィングの仕方を意識し出す。どうしても構えが大きくなり、プロ野球選手並みの格好の良いフォームを意識する。田村監督は、それを横目にひたすらシャッターを押しまくる。
 その結果はどう出たか・・・? 言うまでもない。格好をつけて構える者、力んで大振りする者、きれいなスウィングを意識して空振りする者が続出、勝手に凡打の山を築いてくれる。もちろん、監督の持っているカメラには最初からフィルムなどは入っていない。
 つぎに、「スコアブック・サイン」が効いた。ベンチの中央に座っている田村監督からサインが出ることは出るのだが、監督のすぐ後ろに「おとり」の選手が立っている。その「おとり」が帽子を触ってベルトへ抜ける各種のサインを出しまくる。自軍の打者は1球ごとに当然監督の方に目をやる。相手チームの誰もが監督の後ろに立ってブロックサインを出している選手の動きに注目する。ところがどっこい、本当のサインは監督が手に持っている黄色のスコアブックの角度なのである。スコアブックを立てたら盗塁、開いたらエンドラン、閉じて膝の上に置いたらスクイズ・・・と、これは相当長い間有効であった。
 そして最後は「ほめ殺し戦術」である。相手の強打者が打席に立つと、「このバッターは力があるぞー、外野はバックバック!気をつけろ!」「このバッターは長打力があるから注意しろ。外野に飛ぶぞー」という具合に声を出す。あるいは、「このバッターは国立で一番いいバッターだぞ!外野はもっとさがれえー」などと言う。言われた打者は「その気」になる。「そうか、俺を警戒してるな。よーし一発お見舞いするか」ということになる。すると、どうしても腕に余計な力が入ってバットを振り回す。これまた、打ち損じの確率が上がるという計算だ。この「ほめ殺し戦術」と「カメラ戦術」を併用すると、さらに凡打の確率が増すという寸法だ。
 何時の頃からか、監督のこのような采配は「田村マジック」と呼ばれるようになっていた。昭和42年秋と翌43年の春の大会に国立若葉は連続優勝。国立に敵なしという状況になった。こうなると、当然国立を代表して都大会に出場ということになる。


選手の補強へ

 
国立球界を制覇した田村監督の次なる目標は都大会で旋風を巻き起こすことに移った。都内、三多摩地区の中でも一段と評価の低い国立球界の王者が都大会に挑戦する。まともにぶつかれば、1回戦敗退は目に見えている。しかし、今まで泥だらけになってついてきた選手を檜舞台に立たせてやりたい。田村監督の苦悩は頂点に達していたに違いない。
 ともかく、現有勢力で都大会に臨むことを決意。初戦の相手は「羽村バイキング」と決まった。序盤からエース庄子投手の右腕が冴えた。6回まで12個の三振を奪う力投を見せた。0-0で迎えた6回裏2死ランナー2.3塁から高乗正選手の左中間ツーベースが出て2点を取った。「これでいける」。誰もがそう思った。最終回の表2死から四球と死球で1.2塁となって相手の4番打者が打席に立った。その4番打者はどう差し引いても190p以上で100sはあると見える巨漢であった。2-1と追い込んだ4球目、外角低めにコントロールされた速球をフルスウィング。打球は軽々と右中間スタンドの彼方へ消えた。4番打者が3塁を回ったところでゆっくりと帽子をとった。ななんと・・その頭は・・赤黒く光るスキンヘッド。夕闇に不気味に浮かんだその容貌はまさしく「海坊主」そのものだった。試合は、そのまま逆転で「羽村バイキング」が勝った。打たれた庄子投手は、この試合を最後に再び姿を見せなくなった。
 この試合の後、田村監督はこれまでの方針を大幅に変更する。国立球界を制して3年、今後はこの上を目指す。そのためには、チーム力をもう一段階レベルアップする必要がある。それには選手の補強しかない。さいわい、日大に通学している中泉選手がいる。彼を介して日大硬式野球部の選手を呼んでくるのが最も手っ取り早いと考えた。早速、中泉選手に指令が出た。そこで入団してきたのが、日大二高の元4番打者の片岡選手と徳島商業高校の元4番打者の養田選手、そして前々回登場の松本選手などである。
 この補強は国立球界を震撼させた。片岡、養田選手の打球の早さと飛距離は周囲をうならせ、松本選手の巧打は他球団のベンチの声をかき消した。昭和43年秋の国立大会は、まさに国立若葉のためにあるようなものだった。初戦からコールド勝ちの連続、レベルの違いをいやというほど見せつけた。しかし、良いことばかりは続かなかった。これまで一所懸命に努力を重ねてきた青柳、金谷、大谷などの選手の出番がなくなったのである。ベンチを温める選手が多くなり、それらの選手は異口同音に「チームのためならベンチでいいです」とは言っていたが、それが本心でないことは誰の目にも明らかであった。この時点で、田村野球は草野球の「原点」から大きくはずれかけていたのである。勝利第一に焦点を絞った田村監督には、残念ながらこのチームの危機を感じとることはできなかった。もちろん、出席率重視の方針は無視され、メンバーはただ実力のみで決められた。昭和43年の秋の大会は言うまでもなく国立若葉のぶっちぎりの優勝。田村監督は国立のみでなく、都内にも知られる名監督として一躍有名になった。
 ところが、優勝で沸いた昭和43年の冬、球団の中に「冷たい木枯らし」が吹いた。もともと助っ人の気持の強かった片岡、養田両選手が就職を理由に突然退団、ベンチを温めていた選手達が色々な理由をつけて顔を見せなくなり、チームの中はバラバラになった。
 国立に一陣の疾風を巻き起こした国立若葉球団と田村監督は、冷たい北風とともにその短い命を終えたのである。
 この国立若葉の生き残りの選手達が、ここで経験した苦い思いを胸にその後「国立キングス球団」を結成することになるが、それまでには相当な時間が必要であったのである。




                         国立キングス球団 会長

                                  高乗正臣
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